大学時代、焼き鳥屋のアルバイトに夢中になった藤田純平さん。学生時代に自作の屋台で焼き鳥を売り始めた。社会人になってからは「今しかできないことをしよう」と自転車で日本一周の旅へ。行く先々で焼き鳥店や漁師、農家と出会い、学び、助けられながら、自分の“好き”を深めていった。そして今年1月、市原市・飯給へ移住。現在は焼き鳥店「焼き鳥屋台じゅん」を切り盛りしながら、養鶏にも挑戦している。“自分の手でつくった味”を届けたい──そんな藤田さんの歩みは、里山に根ざした新しい暮らしの可能性を教えてくれる。
取材日 2025年10月30日/文・写真 Akari Tada
焼き鳥屋台じゅん
年齢 29歳
移住時期 2025年1月
移住エリア 加茂地区


千葉市で生まれ育ち、大学では経営学を学んだ藤田純平さん。焼き鳥との出会いは、大学時代にアルバイトをしていた焼き鳥屋だった。
「店長の姿に惹かれたんです。食べに来てくれるお客さんが喜んで帰っていくのを、何度も見て。自分も食に関わる仕事がしたいと思うようになりました」
大学卒業後は都内の飲食店に就職。しかし、胸に残っていた「自分で焼き鳥屋をやってみたい」という想いが強くなり、1年で退職。学生時代に店長からの後押しを受けながら、自作の屋台で移動販売を始めたのが最初の一歩だった。

24歳でイベント出店を本格的に始めた翌年、藤田さんは思い切った行動に出る。
「今しかできないと思ったんです。お店を持ったらもう長い旅に出るのは難しい。なら今だ、と」
選んだ移動手段は“自転車”。
千葉を出て、神奈川、静岡、和歌山、四国、九州、北海道…。7か月間、海沿いを中心に全国を巡った。


旅の途中、さまざまな出会いが待っていた。白浜のラーメン屋では「泊まっていきなよ」と声をかけられ、1週間ほど滞在。お礼に焼き鳥を焼いた。福岡や盛岡の焼き鳥店では紹介を通じて働かせてもらい、北海道・利尻島ではウニ漁師の家に寝泊まりしながら作業を手伝った。
「本当にいろんな人に助けてもらいました。焼き鳥一本を握っているだけで、仕事にもなるし、誰かの役に立てる。旅をしながら、それをすごく実感しました」

宮城県「焼き鳥翔輝」では、食材の扱い方、部位の価値、ロスの考え方…。胸肉が大量に出る一方、レバーのように数が取れない部位の貴重さを知り、食材と向き合う姿勢が深まった。
旅の終盤、藤田さんは印象的な出会いをする。北海道で声をかけてくれた男性は、かつて愛媛の山奥で牛飼いをしていた人だった。
「その人の暮らしぶりや考え方がすごく面白くて。自分もやるなら養鶏から始めたいと思いました」
帰ってからすぐ行動に移し、千葉県庁で農業研修先を探し、市原市の里山ファームを紹介された。さらに牛飼いの男性からのつながりで、埼玉の地鶏生産者を紹介され、本格的に鶏の飼育と飲食を学ぶ日々が始まった。
養鶏を始めるための広い敷地と飼育に適した土壌、近くに民家が少ない環境を求めて、千葉県・埼玉県・房総エリアを探し続けた。しかし、物件はなかなか見つからない。市役所を回っても話が進まず、鋸南町や君津まで足を運んでは空振りが続いた。
転機となったのは、市原市の空き家バンクで見つけた飯給の物件だった。
「敷地が広くて、家のすぐ横で鶏を世話できる。ここなら、と思いました」

こうして今年1月、藤田さんは飯給へ移住。まずは「焼き鳥屋台じゅん」をオープンし、同時に養鶏小屋を建設。現在は58羽の“岡崎おうはん”を育てている。

「まずは自分で育てた鶏を食べてみて、卵として活かすのか、肉としてお店で出すのか、鶏と相談しながら決めていきます」


移住した飯給には、旅先で出会った飲食店やサイクリストも遊びに来てくれたという。「みんな、遊びに来てくれるんです」と笑顔で話す藤田さんの表情には、遠方からでも会いに来たくなるような人柄が滲み出ている。
藤田さんが暮らす飯給は、里山の静けさと人の温かさがほどよく混ざり合う土地だ。
「地域の人が本当に優しいんです。飲食も農業も、やりたいことに挑戦しやすい環境だと思います」
焼き鳥屋にも少しずつ常連が増え、毎週来店するという近所の人は「ここの鳥は全然飽きないんだよね」と声をかけてくれる。
最後に、移住を考える人へのメッセージを尋ねると、藤田さんはゆっくり言葉を選んだ。
「何かやってみたい人には、すごく向いている場所です。気になるなら、一度来てみてください。話を聞きたい人がいたら、いつでも相談に乗ります」
焼き鳥と人とのご縁に導かれ、市原の地で始まった新しい挑戦。
藤田さんの“ここから”はまだ始まったばかりだ。
